男性にとっての「愛」について哀しさを感じてる。

ある機会があって尋ねたことがある。
「女性に魅力を感じるのは、精神性と性的魅力と、どれ位の割合ですか?」

ある男性は「3割7割くらいです。」別の男性は「2対8くらい。」え?どっちがどっちですか?「多い方が性的です。」((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル 

またある男性が言った。「大便、小便と並ぶ排泄ニーズですから。」男性は立ち小便であっても電柱や壁や何かに向かってしたいらしいから、排泄するにあたって相手が欲しいのは理解できる気がする。「愛してる。」は「排泄したい。」なのか?

別の人が言った。「ホントに相手の女の子が好きがどうかは、自分で排泄処理した後にまだ会いたいって思うかどうかで判断できます。」

私は実は以前から「男性の性トイレセオリー」を持っている。自分は老いて汚れていても、排泄に使うトイレはきれいな方がいい。だから何歳になっても若いきれいな女性を使って排泄行為をしたい。これは否定して欲しかったんだけど。

人間としてココロ繋がることの充足感を求める人が、女性からしたら一番魅力的なんだと思うけど。排泄欲求を「愛」と表現することは、別次元のニーズとして、哀しいケド無くならないね。

そもそも。愛って利他のココロじゃないの?排泄欲求は自分のカラダの生理的欲求。哀しいくらい、別次元じゃ?