Tama語録

ふつうのおばさんのTamaさんです。考えてる事や感じる事をゆるゆるに、でもココロ込めて書き留めていきますね。長く緩くて寛容な国に住んでいたので、ちょっとユルいです。(事情あり、アイコンは10年程前の写真です。)

2018年7月19日 ヒーローは静かに居る。

2018年7月19日 
プライバシー設定: 公開
公開
 
 
 
昨日は38年来米国人友のお母さんが急逝されて、大阪でもメモリアル礼拝が行われて行ってきた。
何度も来日されて、私もアメリカに行った時にもお家にお邪魔した。先生でもあり敬虔なクリスチャンでもあり、そして常に人助けをしていたお母さん。話し上手で聞き上手で英知のカタマリでイキイキとしていて、アッパレな女傑だった。
亡くなる少し前のこと。刑務所から出てきたばかりの身長190センチの大男が、出所後の行き場がなくて困っているのを知って、身の振り方が決まるまで泊めてあげてたって。その人は2週間居て、仕事を見つけて出て行ったんだって。何でもない事のように誰に話題にするわけでもなく、ある日家族が訪問してわかったんだって。
「私もいつか母のような人間になりたい。」と話した私の大事な友達。ヒーローは、普通に居る。主張せずに、居る。みんなの中に、あなたの中にも、居る。

寛容さからの幸福感

より正確で厳密で繊細なことが正義だと思いがちな日本の人の幸福感が低いのは当たり前カモしれないな。正確で厳密で繊細ではない自分も他人もあらゆるものも「ダメ」だと否定してしまうから。
 
正確で綿密で繊細でないとダメという判断には、自分にも他人にも寛容さで受容するラブがなくて、否定する側もされる側もラブなしでは幸せにならない。
 
その上に、より正確で厳密で繊細なことがその場の目的達成に寄与しないように思えたとしても、年齢、性別、経験などの絶対的ヒエラルキー服従せざるを得ない理不尽な苦しさが、日本にはある。これでは、幸福感は生まれにくいどころか、パワハラモラハラのハラスメントが出来上がる。この中に組み込まれる異文化外国人市民は、日本人よりもっとしんどいなぁ。
 
日本人女性と西洋人男性の国際結婚の数の方が、日本人男性と西洋人女性の数より圧倒的に多いのは。女性にとってより寛容な文化背景の心地よさあるからかもしれない。
 
アラブの国に移住して心底より解ったのは。より寛容な方に適応する方が、より非寛容な方に適応するよりずっとずっと幸福感が得られるということ。
 
ダイバーシティだとかグローバリズムだとか言うなら。幸福感も生産性も低い日本に来てくれた異文化の人たちを、受け入れ側優位ヒエラルキーで同化させて、意味があるのか。のびのびと違いを表現してもらうことで、一人一人が考えるタネをもらって変わっていくべきなんじゃないのかなぁ。違いから学ぶ。違うから学び合える。そういう姿勢が外国人市民にとっても、日本人市民同士にとっても、どんな違いを持つ誰にとっても、本当のエンパワメントになるんだと思うなぁ。

非寛容さに非寛容

寛容のパラドックス(paradox of tolerance)という言葉があるらしい。
カール・ポパーが1945年に発表したパラドックス(逆説)「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」
私は他に対して非寛容な個性を寛容さを持って受容し続けることの困難さを常に考えながら、自分のことを非寛容さに対して非寛容な人間って言ってきたけど。
確かに非寛容さを寛容さを持って受容することを強制されるのはモラハラでありフェアではないけど。社会正義として非寛容さをボコボコに糾弾するのは違うと思うんだな。望まずして得た脳の機能としての非寛容さは、誰の責任でもないワケだから。
寛容であることが求められてもどうしても非寛容さを発揮してしまうなら、影響を受けてしまう対称から距離を置くしくみができたら、非寛容な人の尊厳も護られるな。

非寛容さに非寛容

寛容のパラドックス(paradox of tolerance)という言葉があるらしい。
カール・ポパーが1945年に発表したパラドックス(逆説)「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」
私は他に対して非寛容な個性を寛容さを持って受容し続けることの困難さを常に考えながら、自分のことを非寛容さに対して非寛容な人間って言ってきたけど。
確かに非寛容さを寛容さを持って受容することを強制されるのはモラハラでありフェアではないけど。社会正義として非寛容さをボコボコに糾弾するのは違うと思うんだな。望まずして得た脳の機能としての非寛容さは、誰の責任でもないワケだから。
寛容であることが求められてもどうしても非寛容さを発揮してしまうなら、影響を受けてしまう対称から距離を置くしくみができたら、非寛容な人の尊厳も護られるな。