Tama語録

ふつうのおばさんのTamaさんです。考えてる事や感じる事をゆるゆるに、でもココロ込めて書き留めていきますね。長く緩くて寛容な国に住んでいたので、ちょっとユルいです。(事情あり、アイコンは10年程前の写真です。)

寛容さからの幸福感

より正確で厳密で繊細なことが正義だと思いがちな日本の人の幸福感が低いのは当たり前カモしれないな。正確で厳密で繊細ではない自分も他人もあらゆるものも「ダメ」だと否定してしまうから。
 
正確で綿密で繊細でないとダメという判断には、自分にも他人にも寛容さで受容するラブがなくて、否定する側もされる側もラブなしでは幸せにならない。
 
その上に、より正確で厳密で繊細なことがその場の目的達成に寄与しないように思えたとしても、年齢、性別、経験などの絶対的ヒエラルキー服従せざるを得ない理不尽な苦しさが、日本にはある。これでは、幸福感は生まれにくいどころか、パワハラモラハラのハラスメントが出来上がる。この中に組み込まれる異文化外国人市民は、日本人よりもっとしんどいなぁ。
 
日本人女性と西洋人男性の国際結婚の数の方が、日本人男性と西洋人女性の数より圧倒的に多いのは。女性にとってより寛容な文化背景の心地よさあるからかもしれない。
 
アラブの国に移住して心底より解ったのは。より寛容な方に適応する方が、より非寛容な方に適応するよりずっとずっと幸福感が得られるということ。
 
ダイバーシティだとかグローバリズムだとか言うなら。幸福感も生産性も低い日本に来てくれた異文化の人たちを、受け入れ側優位ヒエラルキーで同化させて、意味があるのか。のびのびと違いを表現してもらうことで、一人一人が考えるタネをもらって変わっていくべきなんじゃないのかなぁ。違いから学ぶ。違うから学び合える。そういう姿勢が外国人市民にとっても、日本人市民同士にとっても、どんな違いを持つ誰にとっても、本当のエンパワメントになるんだと思うなぁ。