Tama語録

ふつうのおばさんのTamaさんです。考えてる事や感じる事をゆるゆるに、でもココロ込めて書き留めていきますね。長く緩くて寛容な国に住んでいたので、ちょっとユルいです。(事情あり、アイコンは10年程前の写真です。)

フライトで隣り合わせたでっかい黒人男性

5年前の今日。アブダビから日本へ夏の帰国途中の出会い。
 
攻撃して人殺しする側も殺される側も、生活と悲喜こもごもがある生身の人間。でも、戦争実行を判断する側にとってはタダの数。両方から直接伝えられ痛い程わかることは、被害者も加害者も、善意の一般市民であり弱者だということ。
 
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アブダビからドーハ経由、関空への帰国便で隣の席だったのは、30歳超に見えるおっきな黒人男性。ハロー!と言って、荷物を棚に入れようとしたら、チビすぎてうまく入らない。立ち上がって手伝ってくれた。ありがとう!って座って話し始めた。どこから?と聞くと、「難しい質問だ。」と言う。湾岸の方?と聞くと、首を振って、「アトランタジョージア。」おお、湾岸では少数派のアメリカ人。大阪に行くの?観光?と聞くと、「沖縄まで。」と。あ、海兵隊?と聞くと、「違う。ワイフが沖縄にいる。」ああ、日本人の奥さんいるんだ。と思って沖縄の郷土料理やらダイビングの話やらしても何にも知らないなあと思いながら、私の住むアブダビの話やら、ラクダのことやら、アブダビで出会うパキスタンペシャワールやワジリスタンやスウェットバレー出身のタクシーの運転手が話す故郷の美しさとアメリカ軍の爆撃の話、テロと全く関係ない村が攻撃され、子供を殺された親達がアメリカと戦おうとしたらテロリストと呼ばれ更に攻撃され、更に多くの人と子供が殺され、街が壊滅して避難し、僕たちは家も故郷も失った、僕たちには殺されても戦う権利もない、僕たちには声がない。でも今は新しい場所で落ち着いてゆったりと暮らしていると話してくれたこと。今だに亡くした子供を思い泣き暮らす母親のこと、アメリカのアフガン侵攻に怒って、ウズベキスタンからアフガンに入ろうとしたけど途中で奥さんと出会って戦わずに帰って来て結婚したビッグママの次男の笑い話しなんかしながら、奥さん、沖縄の人なんですよね?と確認すると、「嘉手納基地で働いてるジャマイカ人」って。なんだ、やっぱり奥さんは軍関係者。あなたも嘉手納基地で仕事?と聞くと、数ヶ月から半年単位で海外を移動して、たまに沖縄の家族の元に帰るんだって。今まで行った国は?「中国、イラン、パキスタン、クエート、オーストラリア、アフガニスタン、そして妻の国のジャマイカ、、、」え?パキスタンアフガニスタン?クエート?アフガニスタンでナニしてたの?と聞くと笑って答えず。話題を変えて、体格いいけどスポーツしてる?って聞くと、「肩に大きな傷を負ってからはワークアウトするだけ。」って。どこでけがしたの?って聞いたらまた笑って答えなかった。
 
やっぱり戦闘員だ。そんな気がしたから、紛争地帯からアブダビに働きに来ている人達の故郷の暮らしぶりやエピソードも伝えたくて、面白おかしく話した。アメリカの教育の不公平さ、人種差別の問題、私達がアメリカ8000キロ車の旅をした時に痛感した、アメリカ人と銃の切り離せない関係、いろいろ話しながらいろいろ教えてもらった。殆ど仮眠も取らず話してた。
 
飛行機が関西空港に到着して、おかげで長いフライトがあっという間だったよ〜。って言ったら、「僕もホントに良かった。」って。で、荷物がベルトコンベアで回ってくるのを待ってたら、キャリーオンサイズのカバン持って現れて、私の横に立ってる。あれ?沖縄へのフライトは?って聞くと、「僕の荷物はこれだけだし二時間待ちだから。」って、ただじっと軍隊式の直立不動。三ヶ月家を離れて荷物ちょっぴりですごいね、仕事柄おみやげもないよね、でも、なんでここで立ってるワケ?って思ってたら、私が自分のスーツケース見つけて手をかけようとした瞬間に、サッと降ろしてくれた。「荷物はまだある?」と聞くから、ううん、これだけ。ありがとう。ってお礼を言ったら、また静かな声で、「話しができてよかった。」って手を伸ばして握手して立ち去った。
 
彼が言うように、教育が高価過ぎて兵隊さんになったかもしれない本人は、攻撃してる相手の人間的なエピソードなんて聞きたくないだろうし、残酷だと思いながら、話した。知っといて欲しかったから。
 
受け止めてくれたのかな。彼の夢の、貧富の差が少なくてみんなが同じように働きながら音楽を楽しみながら暮らしている奥さんの故郷ジャマイカへの移住計画、速く実現できたらいいな。って思った。