寛容のパラドックス(paradox of tolerance)という言葉があるらしい。
私は他に対して非寛容な個性を寛容さを持って受容し続けることの困難さを常に考えながら、自分のことを非寛容さに対して非寛容な人間って言ってきたけど。
確かに非寛容さを寛容さを持って受容することを強制されるのはモラハラでありフェアではないけど。社会正義として非寛容さをボコボコに糾弾するのは違うと思うんだな。望まずして得た脳の機能としての非寛容さは、誰の責任でもないワケだから。
寛容であることが求められてもどうしても非寛容さを発揮してしまうなら、影響を受けてしまう対称から距離を置くしくみができたら、非寛容な人の尊厳も護られるな。