Tama語録

ふつうのおばさんのTamaさんです。考えてる事や感じる事をゆるゆるに、でもココロ込めて書き留めていきますね。長く緩くて寛容な国に住んでいたので、ちょっとユルいです。(事情あり、アイコンは10年程前の写真です。)

あれから25年。

あの突き上げる衝撃から始まったサーフィンのような揺れが沢山の悲劇を呼んだ日から25年。

うどん屋のまーちゃんの運転と資材と私のフリマの売り上げ5万円程を原資に、何度か避難所に豚汁の炊き出しに走った。倒壊した阪神高速を見ながら走る2号線。最初はあれ見て、あそこスゴイ!って言ってたのが、次第に咽喉が詰まって声が全く出なくなった。

突然奪われた日常。家が真っ二つに割れて片方が崩れて、二階の部屋の鴨居に白いシャツが掛けられたのが剥き出しに見えてた。電気もガスも無く凍てつく東灘の避難所。強烈なトイレの臭いや寒さでカチカチのおにぎり。全壊したマンションの住民のミーティングを取材に来たサンテレビの取材を意識して、「お姉ちゃん、テレビに映るねんけど髪の毛これでええかな?」って聞いてきたかわいいおばちゃん。震災後2週間でまだ現実から乖離した感じがあった。命があってよかったって前向きだった。

ローンを抱えたまま次の住居に住む負担。職場を失った現実。人が亡くなった喪失感。一カ月を過ぎてから現実として認識されて本当のダメージが効力を発揮したように見えた。(あの1月が新築マンション30年ローンの一回目の支払いだった知人、どうしてるだろう。)ひとりひとりが経験した悲痛な体験が語られるようになったのもその頃から。

日本で「ボランティア」というコンセプトを根付かせるきっかけになったと言われる阪神淡路大震災。ボランティアというカテゴリー化された支援以前に、自然な助け合いが状況に応じて有機的に生まれるコミュニティを創っておくこと。とても大切だと思う。

あの日、いろいろな状況で亡くなられた方々を想い、改めてご冥福をお祈り致します。今もお一人お一人の生き様と死に様とともに生きる人達がいらっしゃり、お一人お一人の生き様があることに、精いっぱい思いを馳せます。忘れません。