阪神淡路大震災から19年。
二週間後と三週間後に、会社の近所のうどん屋「孫七」の兄ちゃん含む炊き出し部隊を結成し、指定された避難所へ。資材と食材の仕入れは孫七さん。大助かり。原資は私がフリマに参加してゲットしてた六万円弱。お釣りがなかったから、内緒で孫七兄ちゃんもカンパしてくれてたと思う。ハイエースで二号線に入るとだんだん景色が変わって来た。崩壊した高架に道路。全壊した家屋、また家屋。スコンと日常が切り落とされたように、二階の鴨居にシャツが掛かったのが剥き出しになってる家を見た時には、それまで「うわ〜!あそこ見て!すごい!」って声を上げてたのが、喉が詰まってもう何にも言えなくなった。それからはみんな押し黙ったまま避難所 に着いた。二回の炊き出しで、東灘区の合計800人の被災者の方達ににあったかい豚汁を提供できた。お弁当の配給はあっても、寒くてカチカチになったご飯や揚げ物とストレスで胃の調子が良くない人やお年寄りが沢山いらっしゃった。避難所の幼稚園の床での生活は心身を芯から冷えさせる。本当に寒すぎた。仮設トイレは外にあり、もっと寒くてしかも酷い状態だった。せめて早く電気と水道が復旧するよう、祈るばかりだった。
そんな中、地元のテレビ局が全壊したマンションの自治会の集まりを取材に来てた。豚汁を掻き回す私たちのところに、おばちゃんが駆け寄ってきて、「ちょっと、私らこれからテレビ出るねん。どう、髪の毛大丈夫かな?おかしない?」鏡ないもんね。っていうか、全壊の状態で、こんなシチュエーションで、髪の毛の状態を気にするおばちゃんの女ゴコロに、何だか癒されて笑っちゃった。
マンションが全壊し、倒れた食器棚とテーブルの間で助かった妊娠八ヶ月の知人女子がいた。「お腹の子供も、夫婦共に助かったから本当に良かった。」って気丈だった。本当の現実が襲ったのは一ヶ月を過ぎたあたりからだと思う。「新しい家を借りたら、壊れた家のローンと二重になる。保険は地震は免責だって。主人の会社が崩壊して、いつ再建するか解らないし。きつい。」彼女だけの問題ではなく、多くの被災者の方達が抱えた問題だった。
神戸の街にあの時の傷跡は残っていない。一人一人の被災者の方達が、あの状態から本当に復興したのか。変わってしまった生活を、新しい生き方として受け入れて時間を積み上げているのか。私には分からない。私が知っているのは、仕事が続けられた人と職場を失った人とで、本当に大きな差があったこと。当たり前かもしれないけど、収入が途絶えなかった人は引っ越して生活再建がまだ容易だった。個人経営の会社や店舗、中小企業の経営や勤務の被災者の方達は、経済基盤を失い将来を見失ってた。
阪神淡路大震災の日に、福島を思う。福島から離れられない人の気持は想像できる。生まれ育った故郷だし、日本の現在の経済状況で同じような条件での転職は難しい。家庭維持のために経済的基盤確保に責任を感じる父親。一方、家族や子供の健康維持を優先したい母親の気持ちも想像できる。福島から退職して移転できない父親と、子供守るために引っ越したい母親の軋轢も想像できる。結果、避難離婚が増えているというのも、納得できる。
汚染を認め、会社も個人もコミュニティごと移転し、経済的基盤と助け合いの基盤との両方を確保出来るのが理想だと思う。でも、それをしない。地方自治体の保身のためにも、汚染を認めて土地の担保価値が下がり日本の銀行が破綻し世界経済に大きな打撃を与え損失を生む事は、グローバル経済を牛耳る利権権力が許さない。汚染を認めず、福島もそして経済大国としての日本も大丈夫なフリをし続ける。オリンピックだって招致して、それを世界にアピールする。
放射能汚染も流通、海流、気流に乗ってグローバルに拡がる。海外における汚染が受容レベルの限界に達し、ガイアツで対策が取られるまで我慢しないといけないのか。それまでにもっと広範囲の多くの人の命が犠牲になっていないのか。
私達に何ができるのか。被災者の方達への想いを継続し、言葉にし合い、行動に移すこと。諦めずに問題提議を続けること。一人一人が「できることを、できるときに、できるだけ。」しようと決心し、少しでも実現すること。個々人の活発で幸せな社会生活の集積が、日本もローカルも元気にすると心得ながらグローバル社会をサバイバルし、今日もいい日に致しましょう。